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物理学と神

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 .3 | 投稿日時 2013/8/15 12:30 | 最終変更
PXD02546  一人前   投稿数: 151
こんにちは、失礼します。最近、少し前に読んだ本を読み返しました。この本は正確には物理学と神学と言うのが正しいかも知れません。物理学で神を描いているというより神学を検証しているという感じでしょうか。
「物理学と神 」集英社新書。777円。
「神はサイコロ遊びをしない」と、かつてアインシュタインは述べた。それに対し、量子論の創始者ハイゼンベルグは、サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよいと反論した。もともと近代科学は、自然を研究することを、神の意図を理解し、神の存在証明をするための作業と考えてきたが、時代を重ねるにつれ、皮肉にも神の不在を導き出すことになっていく。神の御技と思われていた現象が、物質の運動で説明可能となったのだ。しかし、決定論でありながら結果が予測できないカオスなど、その後も神は姿を変えて復活と消滅を繰り返し、物理学は発展し続けている。神の姿の変容という新しい切り口から、自然観・宇宙像の現在までの変遷をたどる、刺激的でわかりやすい物理学入門」
帯より
***
創世記 1章 1~5節(日本聖書協会口語訳)
1:はじめに神は天と地とを創造された。
2:地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 3:神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4:神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5:神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
**
「宇宙は無から創成されたことを第六章で述べた。まさに、対称性が完全に成り立つ状態の『無』こそが、宇宙のはじまりにふさわしい」
(P196ページ)
**
確かに、引用したようにそういう翻訳もあり「creatio ex nihiro」(無からの創造)というのが伝統教会の立場ではあります。

創世記 1章 1~5節(日本聖書協会新共同訳)
1:初めに、神は天地を創造された。
2:地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3:神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4:神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5:光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
**
この本文から読み取れるのは混沌からの創造(creatio ex caos)ともされてます。もともとの原典はどちらも同じで、文脈のかかり方でどちらも可能ということになると思います。確か物理にも「無」と「有」の双方があったと思いましたが・・。
原典は以下の通りです。旧約、正確にはヘブライ聖書は最初の1節は表題なので2節からが始まりで、「無しく」からはじまったか、「混沌」からはじまったかですが・・。
1:1
Gen 1:1
בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃Gen 1:2
וְהָאָרֶץ הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ וְחֹשֶׁךְ עַל־פְּנֵי תְהֹום וְרוּחַ אֱלֹהִים מְרַחֶפֶת עַל־פְּנֵי הַמָּֽיִם׃
Gen 1:3
וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃
Gen 1:4
וַיַּרְא אֱלֹהִים אֶת־הָאֹור כִּי־טֹוב וַיַּבְדֵּל אֱלֹהִים בֵּין הָאֹור וּבֵין הַחֹֽשֶׁךְ׃
Gen 1:5
וַיִּקְרָא אֱלֹהִים לָאֹור יֹום וְלַחֹשֶׁךְ קָרָא לָיְלָה וַֽיְהִי־עֶרֶב וַֽיְהִי־בֹקֶר יֹום אֶחָֽד׃ פ
(多言語表記ができるようで感謝です)
「『創造』とはそれまでの枠組みから対称性を破って新たな質を生み出す作業であり、『研究』とは、その過程を克明に跡づける作業に他ならない・・」(P196)。
無からにせよ有からにせよ、それまでの対称性を破って新たな質を生み出したのにはかわりないわけですが・・。

・・・
本を買うほどではないなあ、と言う方は下記の書評が良くできてます。およそまとめていると言えるかも知れません。
http://1000ya.isis.ne.jp/1254.html
投票数:0 平均点:0.00
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 | 投稿日時 2013/8/15 13:15
ゲスト 
引用:

PXD02546さんは書きました:
もともと近代科学は、自然を研究することを、神の意図を理解し、神の存在証明をするための作業と考えてきたが、時代を重ねるにつれ、皮肉にも神の不在を導き出すことになっていく。神の御技と思われていた現象が、物質の運動で説明可能となったのだ

アリアさん、お疲れさまです
養老孟司さんが、よく言っておられたのですが
唯物論というのは根拠をもたない
なぜなら、唯物論を考えたのも人であるから..
ソコを問題にしなくては意味がありません

私が、folomyの聖書forumに書かせて
頂いたように
自分というモノが信じられるかドウカか
本当の意味で問われている事なんだと思います
ソンナ自分自身をサテ於いてなどという
話しなど成立するものではありません

最終的な根拠は、すべて自分自身にあると
思います
投票数:1 平均点:10.00
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/8/15 13:20
like-mj  一人前   投稿数: 768
すいません
loginせずに投稿してしまい、ゲストに
なってしまったのは...like-mjでした
投票数:0 平均点:0.00
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2013/8/15 14:12
PXD02546  一人前   投稿数: 151
コメントをありがとうございます。
昼は久しぶりに冷やし中華にしました。長ネギを5Cmくらいで細切にし、ごま油と黒酢とトーバンジャンで合えます。後は卵焼きを卵焼き器で薄く焼き、ハムも細切りにしてかけました。
長ネギはこの時期、非常に効果が出ます。肩こり腰痛、どんよりなど疲れがさっと取れ、明るく生き生きします。醤油タレ系でもゴマダレ系の冷やし麺にもあいます。
http://kenkou-tabemono.info/index.php?%E9%95%B7%E3%83%8D%E3%82%AE%E3%81%AE%E5%8A%B9%E6%9E%9C

wikiで池内先生を調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%86%85%E4%BA%86
池内了(サトル)
生誕
1944年12月14日(68歳)
日本の旗 日本兵庫県姫路市
出身校
京都大学
学問
研究分野
宇宙論
研究機関
京都大学、北海道大学、東京大学、国立天文台、大阪大学、名古屋大学、早稲田大学、総合研究大学院大学
博士課程
指導教員 林忠四郎
主な業績
泡宇宙論の提唱、新しい博物学の提唱
テンプレートを表示
池内 了(いけうち さとる、1944年12月14日 - )は、日本の男性天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授・学長補佐・学融合推進センター長。名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)(1975年)。兵庫県姫路市出身。
世界平和アピール七人委員会の委員でもある。「九条の会」傘下の「九条科学者の会」呼びかけ人も務めている。
****
宇宙物理学、宇宙論が専門のようですね。九条の会というところから創造すると、私も会合に出てますがキリスト者かも知れませんね。お会いしたことはありませんが・・。
**
唯物論というのは根拠をもたない
なぜなら、唯物論を考えたのも人であるから..

難しいところですね。殆どの人には神が臨在している光景はみることができない、ことからすると立証は可能のような気もします。半透明でも、半物質?でもその姿を観た人にとっては神は絶対ですが・・。
最終的な根拠は自分にあるという唯神論も難しい気もします。神はオーソドックスには絶対他者ですし、私も自分の経験上からそう思います。
投票数:0 平均点:0.00

なし Re: 物理学と神

msg# 1.1.2.1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2013/8/15 23:51
ゲスト 
引用:
PXD02546さんは書きました:
最終的な根拠は自分にあるという**唯神論**
も難しい気もします。
神はオーソドックスには**絶対他者**ですし
私も自分の経験上からそう思います。
(1) 自分を根拠にすえる事は唯物論か
(2) 神は、絶対他者なのか
以上、2つの問いという形で考えてみたいと
思います

どちらも、結構難問ですが
答えは単純です

(1) 唯物論にも、いろいろなversionが
ありますが、何れも物というのを
抽象的に捉える点で共通しています
つまり、1つの哲学に過ぎません
なぜか...そもそも物などというのは
目の前にある具体的なモノでなければ
触れることも、調べることも出来ないからです
そういう意味では、自分自身というモノだって
その核心というモノには手で触れるって訳には
行かないという点で抽象的なモノですが

ここには、決定的な違いがアルのが
お分かりでしょうか
自分という存在は、確かにつかみどころが
ない訳ですが、具体的な目の前のメシを食う
という1点に関してダケ取ってみても
それを食わねば生きられないのは明らかです
そういう意味で具体性をもっております
Descartesが言ったとされる
『 我思うゆえに我あり 』は名言ですが
何を思うかが規定されていない点で
いくら抽象的なことを思ったトコロで
自分の存在は検証されないと思います
これを、『 自分が死ねば世界は消え去る 』と
言えば、それを直接検証することは
出来ませんが、間接的に感じることは出来ます

いくら何を考えたトコロで
メシを食わなかったりして死んでしまえば
自分にとっての世界というものは消えて
しまいます
この主張をもって、ソレが唯物論だと
おっしゃられる気がしますが
そうではありませんね
コレは、経験によって裏打ちされ感じる事で
すべては物の運動に過ぎないという
単純な唯物論のイデオロギーでは
そもそも感じる事など問題にいたしません

感じるナドという事を不確かな事として
切り捨ててしまうのが唯物論の論理です

死んでも、霊のようなモノが残り
他の存在と、生前と何ら変わる事なく
communicationできると言うなら
メシを食う手間が省けるダケ、死んだ状態の
方が、ズット楽ですからね
こうした事は、検証するには実際に
死んでみなければ分かりませんから検証不可能
ですが、経験的にそう感じる事です

(2) まず、最初に言っておきたい事ですが
ここで問題にしている神とは
旧約聖書に書かれている神という前提で
考えます
神にも、いろいろありますからね
そして、話しはイエスにつながらなければ
おもしろくナイでしょう
ここまで言えば、すでにお分かりの通り
イエスが神を絶対他者などという
Categoryで捉えていなかったのは明らかです
net検索しますと。ソレがKarl Barthという
スイスの神学者の考察である事が分かります
神を、どう定義しようと構いませんが
そういう神学体系を論理的に無矛盾に
作ろうという野望が頂けませんね
たとえ詩編に矛盾が多くあろうとも
当時の聖書を書かれた者の考えうる最高の表現
というものがソコにはあるからです
神学などより余程ダンテの神曲の方がマシです
論理的に矛盾がアルとかナイ事などよりも
少しでも神というものを分かりたいという
素直な気持ちを、私は尊重します
投票数:2 平均点:10.00

なし Re: 物理学と神

msg# 1.1.2.1.1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/8/16 14:57
ゲスト 
引用:

ゲストさんは書きました:

>(1) 自分を根拠にすえる事は唯物論か
(2) 神は、絶対他者なのか

>死んでも、霊のようなモノが残り
他の存在と、生前と何ら変わる事なく
communicationできると言うなら
メシを食う手間が省けるダケ、死んだ状態の
方が、ズット楽ですからね
こうした事は、検証するには実際に
死んでみなければ分かりませんから検証不可能
ですが、経験的にそう感じる事です

(2) まず、最初に言っておきたい事ですが
ここで問題にしている神とは
旧約聖書に書かれている神という前提で
考えます
神にも、いろいろありますからね
そして、話しはイエスにつながらなければ
おもしろくナイでしょう
ここまで言えば、すでにお分かりの通り
イエスが神を絶対他者などという
Categoryで捉えていなかったのは明らかです
net検索しますと。ソレがKarl Barthという
スイスの神学者の考察である事が分かります
神を、どう定義しようと構いませんが
そういう神学体系を論理的に無矛盾に
作ろうという野望が頂けませんね。
少しでも神というものを分かりたいという
素直な気持ちを、私は尊重します
※※※
コメントを有り難うございます。
根本的な部分をつく、鋭い指摘と思います。
1〉2〉という簡潔なまとめかたに、模範的な姿を感じます。
私もというか私は、死んでも意識は(精神〉が残り、永久に不滅であると信じてます。ただ、ひょとすると個は滅しつし、全体の一部になるかも知れない、とも思います。そして全く新しい世界に生まれ変わる、復活する訳です。
イエスにとっては神は他者でなく、自分の父であったことは確かです。そこから子であるという信仰も生まれたと思います。ただ、自分の父、イエスの言葉でいうと、父ちゃん、パパかというと・
少なくとも抵抗があります。
イエスと自分もやはり違う。イエスは私達人間の習う模範ではあるけど、同じではないと思います。まあ、私は最初、他者として出合い、やがて聖書、教会を通じて自分の導師になったという経緯があるからかも知れない。
べつに右手を上げて「教憲・教規に従い、兄弟姉妹を導き・」と毎度誓っているからだけではないのですが。
k・バルトで解釈というのもたまたま自分にあっていたわけで・。まあ、万が一、タイムマシンなどに乗って、聖書から検出した史的イエスでなく、事実の歴史のイエスにあったとしても教会の教えに解釈できる理論ですが、
投票数:0 平均点:0.00
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/8/19 6:16
PXD02546  一人前   投稿数: 151
この辺は、また。秋の連休にでも書こうとも思います。目は通して考えておきます。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/8/27 6:47
PXD02546  一人前   投稿数: 151
この辺の信仰の問題は十人十色だし、教会とかで、語るのが正解のような気がします。本については続けますが、これくらいで
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